夏目漱石ーこころー下ー12

2024-01-12 06:28:2406:01 3020
声音简介

「私の気分は国を立つ時すでに厭世的えんせいてきになっていました。他ひとは頼りにならないものだという観念が、その時骨の中まで染しみ込んでしまったように思われたのです。私は私の敵視する叔父おじだの叔母おばだの、その他た親戚しんせきだのを、あたかも人類の代表者のごとく考え出しました。汽車へ乗ってさえ隣のものの様子を、それとなく注意し始めました。たまに向うから話し掛けられでもすると、なおの事警戒を加えたくなりました。私の心は沈鬱ちんうつでした。鉛を呑のんだように重苦しくなる事が時々ありました。それでいて私の神経は、今いったごとくに鋭く尖とがってしまったのです。
 私が東京へ来て下宿を出ようとしたのも、これが大きな源因げんいんになっているように思われます。金に不自由がなければこそ、一戸を構えてみる気にもなったのだといえばそれまでですが、元の通りの私ならば、たとい懐中ふところに余裕ができても、好んでそんな面倒な真似まねはしなかったでしょう。
 私は小石川こいしかわへ引き移ってからも、当分この緊張した気分に寛くつろぎを与える事ができませんでした。私は自分で自分が恥ずかしいほど、きょときょと周囲を見廻みまわしていました。不思議にもよく働くのは頭と眼だけで、口の方はそれと反対に、段々動かなくなって来ました。私は家うちのものの様子を猫のようによく観察しながら、黙って机の前に坐すわっていました。時々は彼らに対して気の毒だと思うほど、私は油断のない注意を彼らの上に注そそいでいたのです。おれは物を偸ぬすまない巾着切きんちゃくきりみたようなものだ、私はこう考えて、自分が厭いやになる事さえあったのです。
 あなたは定さだめて変に思うでしょう。その私がそこのお嬢じょうさんをどうして好すく余裕をもっているか。そのお嬢さんの下手な活花いけばなを、どうして嬉うれしがって眺ながめる余裕があるか。同じく下手なその人の琴をどうして喜んで聞く余裕があるか。そう質問された時、私はただ両方とも事実であったのだから、事実としてあなたに教えて上げるというより外ほかに仕方がないのです。解釈は頭のあるあなたに任せるとして、私はただ一言いちごん付け足しておきましょう。私は金に対して人類を疑うたぐったけれども、愛に対しては、まだ人類を疑わなかったのです。だから他ひとから見ると変なものでも、また自分で考えてみて、矛盾したものでも、私の胸のなかでは平気で両立していたのです。
 私はびぼうじんの事を常に奥さんといっていましたから、これからびぼうじんと呼ばずに奥さんといいます。奥さんは私を静かな人、大人おとなしい男と評しました。それから勉強家だとも褒ほめてくれました。けれども私の不安な眼つきや、きょときょとした様子については、何事も口へ出しませんでした。気が付かなかったのか、遠慮していたのか、どっちだかよく解わかりませんが、何しろそこにはまるで注意を払っていないらしく見えました。それのみならず、ある場合に私を鷹揚おうよう方かただといって、さも尊敬したらしい口の利きき方をした事があります。その時正直な私は少し顔を赤らめて、向うの言葉を否定しました。すると奥さんは「あなたは自分で気が付かないから、そうおっしゃるんです」と真面目まじめに説明してくれました。奥さんは始め私のような書生を宅うちへ置くつもりではなかったらしいのです。どこかの役所へ勤める人か何かに坐敷ざしきを貸す料簡りょうけんで、近所のものに周旋を頼んでいたらしいのです。俸給が豊ゆたかでなくって、やむをえず素人屋しろうとやに下宿するくらいの人だからという考えが、それで前かたから奥さんの頭のどこかにはいっていたのでしょう。奥さんは自分の胸に描えがいたその想像のお客と私とを比較して、こっちの方を鷹揚だといって褒ほめるのです。なるほどそんな切り詰めた生活をする人に比べたら、私は金銭にかけて、鷹揚だったかも知れません。しかしそれは気性きしょうの問題ではありませんから、私の内生活に取ってほとんど関係のないのと一般でした。奥さんはまた女だけにそれを私の全体に推おし広げて、同じ言葉を応用しようと力つとめるのです。

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