もう私は嬉しくてたまらない。「裸足の少女」という映画も見たいとは思っていたのだが、このごろ私は遊んでばかりいたので、遠慮していたのだ。それをお母さん、ちゃんと察して、私に用事を言いつけて、私に大手《おおで》をふって映画見にゆけるように、しむけて下さった。ほんとうに、うれしく、お母さんが好きで、自然に笑ってしまった。
お母さんと、こうして夜ふたりきりで暮すのも、ずいぶん久しぶりだったような気がする。お母さん、とても交際が多いのだから。お母さんだって、いろいろ世間から馬鹿にされまいと思って努めて居られるのだろう。こうして肩をもんでいると、お母さんのお疲れが、私のからだに伝わって来るほど、よくわかる。大事にしよう、と思う。先刻、今井田が来ていたときに、お母さんを、こっそり恨《うら》んだことを、恥ずかしく思う。ごめんなさい、と口の中で小さく言ってみる。私は、いつも自分のことだけを考え、思って、お母さんには、やはり、しん底から甘えて乱暴な態度をとっている。お母さんは、その都度《つど》、どんなに痛い苦しい思いをするか、そんなものは、てんで、はねつけている自分だ。お父さんがいなくなってからは、お母さんは、ほんとうにお弱くなっているのだ。私自身、くるしいの、やりきれないのと言ってお母さんに完全にぶらさがっているくせに、お母さんが少しでも私に寄りかかったりすると、いやらしく、薄汚いものを見たような気持がするのは、本当に、わがまますぎる。お母さんだって、私だって、やっぱり同じ弱い女なのだ。これからは、お母さんと二人だけの生活に満足し、いつもお母さんの気持になってあげて、昔の話をしたり、お父さんの話をしたり、一日でもよい、お母さん中心の日を作れるようにしたい。そうして、立派に生き甲斐を感じたい。お母さんのことを、心では、心配したり、よい娘になろうと思うのだけれど、行動や、言葉に出る私は、わがままな子供ばっかりだ。それに、このごろの私は、子供みたいに、きれいなところさえ無い。汚《よご》れて、恥ずかしいことばかりだ。くるしみがあるの、悩んでいるの、寂しいの、悲しいのって、それはいったい、なんのことだ。はっきり言ったら、死ぬる。ちゃんと知っていながら、一ことだって、それに似た名詞ひとつ形容詞ひとつ言い出せないじゃないか。ただ、どぎまぎして、おしまいには、かっとなって、まるでなにかみたいだ。むかしの女は、奴隷とか、自己を無視している虫けらとか、人形とか、悪口言われているけれど、いまの私なんかよりは、ずっとずっと、いい意味の女らしさがあって、心の余裕もあったし、忍従を爽《さわ》やかにさばいて行けるだけの叡智《えいち》もあったし、純粋の自己犠牲の美しさも知っていたし、完全に無報酬の、奉仕のよろこびもわきまえていたのだ。
我高兴得不得了。我是很想看《赤脚少女》这部电影,但最近我除了玩儿就没干别的,所以有些心虚。妈妈全都看在眼里,就安排我干点事儿,好让我能够大摇大摆心安理得地去看电影。真心高兴,好爱妈妈呀,我自然地笑起来。
感觉已经很久没和妈妈两个人这样共度夜晚的时光了。因为妈妈的应酬非常多。估计妈妈也是不想被世人看低,所以对各种事情一直都很努力。就这样揉着肩膀,妈妈的疲劳传递到我身上,我真切感受到了妈妈的不易。要好好对待妈妈。刚才今井田在的时候,我还对妈妈暗暗抱怨过,想来真是羞愧。“对不起。”我嘴里面小声地嘟囔着。我总是只考虑自己,只关心自己,和妈妈相处时打心底里就会恃宠生娇,态度粗暴。那些时候妈妈心里该是多么痛苦啊,可自己却总是拒绝妈妈。自从爸爸去世,妈妈真的软弱了很多。我自己总是嚷嚷痛苦难受,完全依赖着妈妈,可是如果妈妈稍微依靠一下我,我会觉得像是看到了讨厌的脏东西,这种想法实在太过任性。妈妈也是,我也是,同样都是软弱的女人。从现在开始,我要满足于和妈妈两个人相依为命的生活,时时为妈妈设身处地地着想,和她聊聊以前,聊聊爸爸,哪怕只有一天也好,要努力过以妈妈为中心的生活,要从中充分地感受到生存的价值。虽然在心里很关心妈妈,想要当一个好女儿,可是表现在言行上,我就只是一个任性的小孩子。而且,最近的我甚至不再像小孩子那样干净纯洁,净是些肮脏羞耻的事情。痛苦啦,烦恼啦,寂寞啦,悲伤啦,这些到底是什么呢?确切地说,就是死亡。尽管知道得很清楚,可是哪怕简短地描述一下时,与之相似的名词或形容词却是一个都说不出口,不是吗?一味地惊慌失措,末了就大发脾气,搞得煞有介事似的。以前的女人总被说成是奴隶,是无法顾及自身的蝼蚁,是人偶,很难听,可是和现在的我比起来,她们更有正面意义上的女人该有的样子,内心从容,聪明睿智,懂得如何爽快地接受并通过隐忍服从的方式生活下去,知道纯粹的自我牺牲是大美,也完全明白不求回报的奉献之喜悦。
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